家族

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5月17日が来ました。

私は、2歳と離れてない姉と、これまた2歳と離れていない弟との3人姉弟の真ん中で育ちました。小さい頃は、どちらかというとマイウェイな姉と遊ぶより、ポワンとした弟が可愛くて、私なりのお姉さん風を吹かせつつ、ママゴトやボール投げ、折り紙など、よく一緒に遊びました。

弟が歩き始めた頃の記憶があります。父や母が、後ろから弟の脇の下に手を入れて支え、大人の足の間に挟むようにして「いち、にい、いち、にい」と弟の歩行練習をするのを見て、「私もやる!」と。弟の後ろに回って「いち、にい、いち、にい」をやりました。今考えると、まだ3歳にならないお姉ちゃんが弟の歩行練習…危なっかしかったでしょうね。

弟は生まれつき心臓に雑音があり、姉も私も小さい頃からその事は聞かされていて、弟が若干丁寧に扱われている理由を理解していたように思います。

心臓の音を聞いたことはありますか?よくドック、ドックとか、トン、トンとか言いますね。弟の心臓の音はザーッ、ザーッでした。

心室中隔欠損。今なら簡単な手術で、まだ幼い内に塞いでしまうらしいのですが、60年以上前のこと、乳幼児の心臓手術の症例はまだまだ少ない時代でした。雑音以外は顔色も発達もよく、少し大きくなるまで様子を見る、というのがお医者様たちの見解でした。

小学校、中学、高校…弟の心臓は入学のたびに健診で引っかかります。でも、目立ったチアノーゼがない、酸欠で倒れたこともない。食欲もあり、痩せっぽっちでもない。さすがに運動系の部活はやらなかったけれど、水泳もスキーもやり、元気で健康にさえ思えました。

大学に入った時、健診の結果で一般教養の体育は「見学」に振り分けられ、授業を見ているだけで参加できないんだ、と不服そうでした。健診結果は医学部の教授まで回されました。2年になると「就職までは時間があるから、今のうちに手術を受けてはどうか。」と提言をいただきました。

弟は検査を重ねて、3年生を休学して治療することを決めました。合併症が起こっていて、手術の難易度は高くなっていました。

同じ心臓外科に、同い歳のお嬢さんが入院していて、手術を受けた後でした。華奢で色が透き通るように白く、いかにも病弱な印象でしたが「私みたいなのが大丈夫だったから、O君なら体格もいいし、大丈夫だよ。」と励ましてくれました。

手術では沢山の輸血が必要で、弟の友達が何人も献血をしてくれました。そして当日は新鮮血も必要なため、同じ血液型の数人が待機することにとなりました。その待機をお願いした中に、私の2人の友達もいました。中学一年に同じクラスになって以来のCとU。2人とも2つ返事で引き受けてくれました。

そう、Uは今も仕事で毎日顔を合わせているUなのです。本当にいろんな局面で助けてもらったのだな、とあらためて思います。手術中の不安を跳ね除けるように、輸血までの長い待機時間を、3人でゲラゲラ笑い転げて過ごせたのは、心底ありがたかった。

11時間を越す手術のあと、翌日ICUの窓越しに、「やあ」と片手を上げて目を合わせたのが最後でした。その後4日間、家と病院を何往復したでしょうか。家に帰る、病院からの電話が鳴る、病院に戻る、の繰り返しでした。

葬儀には小学校、中学、高校、大学…それぞれ沢山の友達が来て、見送ってくださいました。友達、たくさんいたんだね。亡くなった日、病院から戻ると高校の部活顧問だったU先生がすぐ駆けつけてくださって「O君!」と声を上げて泣いて、沢山話をして、そして元生徒さん達に抱えられるようにして帰られたっけ…。可愛がっていただいてたんだね。

私より若いのに、私よりいい子なのに、頭がよくて、努力家で、真面目で、素直で、優しくて、両親にとってたった1人の男の子なのに…なんで。良くなろうとしただけなのに、かわいそうで、悲しくて、悔しくて、電車の中でも、歩いていても、突然涙が止めようなく溢れ出る日が続きました。

両親の喪失感を思いやる瞬間だけ、自分の感情から解放されました。私より辛く悲しい人がいる…。

生涯で一番悲しかったことは?と聞かれたら、間違いなく弟との別れの時、と答えます。(亡き夫よ、誤解しないで。「悲しい」と「苦しい」は違うのです。)

21歳を待たずに人生を終えた弟。あれから46年がたち、やっと書きとめる事ができました。

お供えに栗上用。

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